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SF喪失倫理

わたしを離さないでNever Let Me Go

Kazuo Ishiguro / イギリス(日系) / 2005年 ・ 読了目安 280分

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臓器提供のために生まれた子どもたちが、それを知りながら静かに生きた。

『わたしを離さないで』のイメージイラスト
『わたしを離さないで』のイメージ(AIによる生成イラスト)
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主な登場人物

  • キャシー・H本作の語り手で「介護人」として働く女性。ヘールシャムでの記憶を淡々と語り直しながら、ルースとトミーとの関係の中心に立ち続けた人物である。
  • トミー幼い頃から癇癪持ちで浮いた存在だったが、絵を描くことに独自のこだわりを持つ。のちにキャシーの恋人となり、ギャラリーの意味をめぐる理論を語る。
  • ルース三人の中で最も自意識が強く、ときにキャシーを傷つける振る舞いをする。提供が進むなかで過去の意地悪を悔い、二人を結びつけようとする。
  • マダムヘールシャムの子どもたちの作品を集めていた謎めいた女性。彼女の涙の理由は物語の終盤、キャシーが訪ねたときに初めて明かされる。
  • ミス・ルーシーヘールシャムの担当教師の一人。子どもたちに運命の真実を伝えようとしたことで、学校を去ることになる。

あらすじ

あらすじ(ネタバレあり)

イギリスの寄宿学校「ヘールシャム」で育ったキャシー・Hが語り手。彼女は三十一歳になった今も「介護人」として働きながら、幼なじみのルース、トミーとの思い出を振り返る。

物語が進むにつれ、ヘールシャムの子どもたちの正体が少しずつ明かされる——彼らはクローン人間として、将来臓器を提供するために育てられた存在だ。「提供」を数回繰り返した後、「完了」(死)を迎える運命にある。担当教師のひとりミス・ルーシーは、ある日子どもたちにその事実を率直に告げようとするが、学校側の方針に反するとして間もなく姿を消してしまう。

ヘールシャムでは絵画や詩などの創作活動が重んじられ、優れた作品は「マダム」と呼ばれる女性に選ばれてどこかへ持ち去られていく。子どもたちはそれを名誉なことと信じているが、実際にはクローンにも人間と同じ「魂」があることを証明するための展示だったと、のちにトミーが独自の理論を語る。キャシーが宝物にしていたカセットテープの曲に合わせ、枕を赤ん坊に見立てて一人で踊っていた場面を、マダムに目撃されて涙されるという印象的な出来事もこの時期に起きる。

ヘールシャムを出た三人は「コテージ」と呼ばれる共同生活の場に移り、外の世界と少しずつ接するようになる。ここでルースとトミーが付き合い、キャシーはトミーへの気持ちを抑えてきた。ルースが自分の「オリジナル」らしき女性を見たという噂を頼りに、三人でノーフォークまで小旅行に出るが、その女性は別人だと分かる。施設を出た後、ルースは提供を始め、弱っていく過程でキャシーとトミーに二人を付き合わせようとする。ルースは提供の途中、長年の意地悪を詫び、マダムの住所を二人に託して「完了」する。

キャシーとトミーは恋人になり、「猶予」の申請(本当に愛し合っているカップルは提供を数年延期できるという噂)を求めてマダムと、ヘールシャムの元学長格だった女性教師を訪ねる。しかし猶予制度は存在せず、ヘールシャム自体もすでに閉鎖されていたことが告げられる。二人が長らく信じてよすがにしてきた希望は、ここで静かに崩れ去る。

トミーは「完了」し、キャシーも次の提供者になることが決まっている。物語の最後、キャシーはノーフォークの野原に立ち、風に飛ばされたごみが柵にひっかかっている光景を眺めながらトミーを思う。泣きながらも、彼女は「あとで取り戻せるものは何もない」と静かに感じ、車に乗り込んで自分の持ち場へと向かっていく。感傷を排したその筆致こそが、本作最大の読みどころでもある。

読みどころ

  • SF的設定を一切説明せず、登場人物が内面化して受け入れている静けさの恐怖
  • 「なぜ逃げないのか」という問いへの答えが読む者に問い返される
  • ノーベル文学賞作家イシグロの最高傑作との評価

なぜ読み継がれるのか

本作の恐怖は、クローンという設定そのものではなく、登場人物たちが一度も逃げようとしないという一点に宿っている。ヘールシャムにもコテージにも、彼らを閉じ込める鉄条網や監視塔は存在しない。バスに乗って街へ出ることもできるし、提供の順番を無視して姿をくらますことも理屈の上では可能だ。それでもキャシーたちは静かに列に並び続ける。『一九八四年』や『すばらしい新世界』が権力による強制と抵抗の物語であるのに対し、本作が描くのは、抵抗という発想そのものが子どものうちに内面化によって静かに刈り取られていく過程だ。読者はここに、気候変動やアルゴリズムに管理された労働、あるいは避けようのない老いや死といった、自分では動かしようのない大きな構造をどこかで受け入れて生きている自分自身の姿を重ねずにはいられない。

イシグロがこの作品を発表した2005年前後は、クローン羊ドリーの誕生や幹細胞研究をめぐる倫理論争が社会の記憶に新しい時期だった。だが本作が突きつけるのは科学技術への警鐘というより、人間が他者の身体や時間をどこまで消費してよいのかという、もっと古くからある問いである。臓器提供のために生かされ、役目を終えれば「完了」する彼らの生は、使い捨てにされる労働力や、代理出産・生殖医療をめぐる現代の議論とも静かに共鳴する。誰かの生が誰かの延命の手段として制度化されるとき、その境界線はどこに引かれるべきかという問いは、二十年近く経った今もまったく古びていない。

もうひとつ本作を特異なものにしているのが、「マダム」がヘールシャムの子どもたちの絵や詩を集める「ギャラリー」の挿話だ。それは彼らに人間と同じ「魂」があることを社会に証明するための展示だったとトミーは推理する。存在するだけでは足りず、創造性という形で自分の内面を差し出して初めて人間として扱ってもらえるかもしれない、という理不尽さは、人格や権利がしばしば生産性や表現の巧拙によって値踏みされてきた歴史そのものの縮図でもある。AIが生成する文章や絵が話題になり、何が「本物の創造性」の証しなのかが改めて問われている現在、この挿話は皮肉なほど新しい響きを持って読める。

この作品を長く記憶に残すもう一つの仕掛けが、「猶予」という制度をめぐる噂だ。心から愛し合うカップルには提供が数年先延ばしにされるという話は、ヘールシャムの卒業生たちのあいだで長らく信じられてきたが、実際にはそのような制度は一度も存在しなかったことが終盤で明かされる。逃げ道になりうる希望を制度の内側にちらつかせておきながら、実際にはそれを与えるつもりが最初からないという構造は、真面目に努力すれば報われるはずだという神話によって人を従順にとどめておく、現実の労働や教育の場面ともどこか重なって見える。

主な登場人物

キャシー・H — 本作の語り手で「介護人」として働く女性。ヘールシャムでの記憶を淡々と語り直しながら、ルースとトミーとの関係の中心に立ち続けた人物である。

トミー — 幼い頃から癇癪持ちで浮いた存在だったが、絵を描くことに独自のこだわりを持つ。のちにキャシーの恋人となり、ギャラリーの意味をめぐる理論を語る。

ルース — 三人の中で最も自意識が強く、ときにキャシーを傷つける振る舞いをする。提供が進むなかで過去の意地悪を悔い、二人を結びつけようとする。

マダム — ヘールシャムの子どもたちの作品を集めていた謎めいた女性。彼女の涙の理由は物語の終盤、キャシーが訪ねたときに初めて明かされる。

ミス・ルーシー — ヘールシャムの担当教師の一人。子どもたちに運命の真実を伝えようとしたことで、学校を去ることになる。

印象的な場面

枕を抱いて踊るキャシー

寮の自室で、キャシーは大切にしているカセットテープの曲に合わせ、枕を赤ん坊のように抱いて一人で踊っている。ふと顔を上げると、戸口に「マダム」が立ち、涙を流しながらこちらを見つめていた。幼いキャシーはただ恥ずかしさを感じるだけだが、のちにこの涙の意味が判明する——マダムは、いずれ子どもを持つことも老いることもないまま短い生を終えるキャシーの姿に、失われていく無垢さを見ていたのだ。読者はこの時点ではまだ「提供」の正体を知らされていないが、説明されないままに漂う不穏さが、再読したときには一層強い痛みへと変わる。設定を種明かしする前に感情だけを先に刻んでおく、イシグロの語りの巧みさが凝縮された場面である。

猶予は存在しないという宣告

キャシーとトミーは、本当に愛し合うカップルには提供の猶予が与えられるという噂を頼りに、マダムとかつての学長格だった教師のもとを訪ねる。だが返ってくるのは、そんな制度は一度も存在しなかったという静かな否定であり、ヘールシャム自体もすでに閉鎖されていたという事実だ。二人が長年心の支えにしてきた希望は、劇的などんでん返しもなく、大人たちの淡々とした説明のなかで音もなく崩れ落ちる。この場面が効くのは、絶望が怒りの爆発としてではなく、大人たちの申し訳なさそうな静けさとして提示される点にある。制度に反抗する余地すら最初からなかったことを、読者はここで初めて完全に理解させられる。二人はそれでも互いを責めることなく、ただ黙って帰路につく。

ノーフォークの柵の前で

物語の終わり、トミーを失ったキャシーは介護人としての仕事の合間に車を走らせ、ノーフォークの野原に立ち寄る。ノーフォークはヘールシャムの子どもたちの間で「失くしたものが最後に流れ着く場所」と語り継がれていた、あの土地だ。風に飛ばされてきたごみが柵にひっかかっている光景を眺めながら、彼女は失った人々を思い、少しだけ泣いたのちに車に乗り込み、自分の持ち場へと戻っていく。声高な絶望も救済も描かれないこの淡白な幕引きこそが、本作の姿勢を凝縮している。キャシーは運命に納得したわけではないが、抗う言葉も持たない。それでも生きて記憶を語り続けるという、ささやかで抑制された選択そのものが、読者の胸に長く残る余韻をつくり出す。

読後の1冊

静かな抑制の語りにひたった読後は、同じ手触りを持つ作品に手を伸ばしたくなる。イシグロ自身の代表作である日の名残りは、感情を抑え込んだまま人生の選択を振り返る執事の一人称という点で、キャシーの語りと驚くほど響き合う一冊だ。クローンという設定の背景にある管理社会の恐怖をより直接的に味わいたいなら、すばらしい新世界が格好の一冊になる。生殖と幸福が管理された世界を外側から描く視点は、本作の内側からの視点と鮮やかな対をなしている。また、失われた青春と友人たちとの記憶を淡々とたどり直す語り口に惹かれたなら、ノルウェイの森も長く心に残るはずだ。三角関係と喪失というモチーフが、まったく違う舞台でもう一度、静かな余韻とともに姿を見せてくれる。

ONE MORE CLASSIC

読後の1冊

物語の余韻を、次の名作へつなげるための選書です。

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